2015年09月13日

神の愛を行う人

神の愛を行う人


上の写真は3年前に撮りました。

普天間基地周辺にはこのような通りから見えない空間が存在します。

デイゴ通り普天間神宮向け左側歩道と基地の間に
このような深いくぼ地があります。


基地反対運動の中で行われる「人間の鎖」の際
ここにはたくさんの人々が連なり基地に向かって手に手を取り
「基地はいらない」と意思表示をするのです。

私も人間の鎖に参加した経験があります。

3年前「探検に行こう!」とかわいい孫当時3歳の2人を
引き連れて緑の中を歩き回りました。

しあわせで楽しい一時でした。

写真の孫達もあれから三年たち現在たくましく成長しています。
あのまま沖縄リバイバルチャーチに残っていたとしたら
この時期にほのぼのと孫と散歩を楽しむ生き方は出来なかった。

この幸せを感謝します。



…………………………






以下本題に入ります。





あれもこれもこのこともあのことも私の命の恩人であられる
盛山師はご自身の人生を犠牲になさり、命を削りながら、
この13年という長い年月を、取るに足りない愚かな私・私たち
小さな者のために驚くべき愛を注いでくださいます。


それは次につながる子や孫、子々孫々のため、その家系の回復のために、
世代のひずみ、ルーツの修復という血のにじむ命の修正作業をご自身の
身を削りながら大きな犠牲を払いながら立ち向かっておられるのです。



ご自身の体に鞭打ちながら人のために、それも縁もゆかりも無い
他人のために血を流される。なんと、いつもどんな時もご自身のこと
は後回し。 すべてを相手のために、どんなときでも弱い者を優先され
深く心を尽くし行動に移すされる。全く尋常ではない想像を絶する
生き方ではありませんか。


盛山師の千分の一万分の一でも実行できる牧師が沖縄にいるか?
いません! いないのです!
いやいや、いますよ。という方がおられますか?
口先で牧師はなんとでも言うのです。牧師は「口先商売人」。

もっと酷いのが沖縄リバイバルチャーチの儀間盛夫と息子の儀間盛人です。
儀間親子は口先商売牧師よりはるかに悪質な「詐欺牧師」ですから。
信徒もだまし、社会もだまし、裁判官もだますのです。
儀間親子は、あの安倍晋三と同等の極悪人です。

私たちは、この10年余り数え切れないほど沢山の自称牧師たちと
直接会い視てきました。呆れるばかりの「勘違い野郎」ばかりでした。

最近の勘違い牧師たちは、口で稼ぐ商売人です。
彼らは意気揚々と「俺は牧師様であるぞ!」といわんばかり、
身の程も知らずに盛山師に挑戦して来るのでした。

聖書をうまく利用し信徒を散々押さえつけることに慣れていた
おバカ牧師は一刀両断の元、盛山師にカツを入れられるのでした。


ある時、初対面の牧師のあまりにも失礼な態度に盛山師は厳しく注意をされた。

その注意に怒ったおバカ牧師は、盛山師に向かって「あなたは何者か?」
と偉そうにいった。「はい、私はただのオバーですよ。」と師はさらりと
代わしたのでした。

その場にいた牧師らは口ごもり反論の一言もなかった。
私は何十回とそのような光景を実際に目の前で視てきました。

被害を受けた私が言いたかったことを軒並み理路整然と事実真実を痛烈に語る
盛山師の発する言葉をとなりで聞き毎回スッキリ爽快でした。


そんな盛山師ですから、おバカ牧師に簡単に騙される私の精神構造を
修正(一般社会に通用できるように)してくださるとき、師の大きく強い愛の
砲弾がズドンズドンと飛んできます。その衝撃で私は脳震とうの連続です。


そんなことにも あんなことにも関係なく命の恩人である盛山師は
厳しくも実に厳しくも愛情深く諭してくれます。

愛の砲弾を受ける私はなんと幸せ者でしょう。

自分に起こっていることだとは信じがたいくらい壮絶で壮大で有難いことです。

盛山師は今ここで修正しなくては、今気づかさなければこの時を逃すと 、
いつものように「これでいいのだ コレデイイノダ 」と前頭葉分裂で無知な
私は何度も何度もおなじ間違いを繰り返します。

口先牧師に負けず劣らず私も「大変な勘違い野郎」なのです。
自分の問題や間違いに気づくことは私には本当になかったのです。

おそろしいことです。

師はその時 この時 その場その場を逃さず外さず「今だ・ココだ」という
時に砲弾を発射するのです。
圧倒的な厳しさで ビシッ! バシッ! ババン! と修正点を指摘してくださいます。


直接的痛烈にババン!!!と指摘を受けると確かにつらい 確かに苦しい
心が重い、頭が混乱する。

マインドコントロールと自分の無恥さゆえに思考のゆがんだ私の脳は
その衝撃でくらくらっとする。要するに対応不能・処理不能状態となり
限界アラームが鳴り響くのです。

でもよくよく頭を冷やし時間を置いて何度も考えてみると盛山師の深く
大きな愛情をヒシヒシと感じ未熟な私でもことの善し悪しがわかります。


盛山師のご指摘は思慮深く正しいのです。

師のご指摘を必死にいただきつつ、一つ一つまた一つまた一つ
心を!脳を!思考を!思いを!癖!を修正する努力に心を向けます。

長年積み重ねてきた本能、癖、習慣、を変えることは私にとって
不可能と思える領域でした。未だに同じ失敗を繰り返す私です。


盛山師の決断はその行動はもちろんご自分のためではない。
すべて 私たちのため! あなたのため!向き合う相手のため!
おびえ弱った者たちのためなのです。
その犠牲はあまりにも大き過ぎる。


師の行動は、まっすぐに天から差し込む陽射(ひざし)のように
一直線に痛烈に厳しくも温かくその人の心に突き刺します。


師は60代から70代の全てを世の中から捨てられ見向きもされない
宗教狂いの私たちのために人生を削り続けておられる。

なんとも言葉になりません。
想像を絶する優しさ! 温かさ! 深い愛!のかたまりです。


私には辛く苦しい道のりでしたが、今は例えようのない幸せに包まれています。
どんな時でも師はやさしく助けの手をさしのべてくださいます。


師の深く温かい究極の日々の祈りは驚くばかり・・・

本物の優しさは厳しいものだということを知ります。









つづく









Posted by 上江洌 at 13:35