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2014年04月24日
4月24日の記事
今回の記事は2011年11月に私が書いた文章です。
今の状況と三年前の自分自身と比べて、どこがどんな風に変わったのか
見てみたいと思います。
みなさんはどのように感じるでしょうか?
ご意見を聞かせて頂ければありがたいです。
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2011年11月3日
1.マインドコントロールを受けると
私は今年で54歳になりました。あの事件からもう7年が過ぎようとしています。私が沖縄リバイバル教会に通い出したのは、今から17年前になります。37歳から47歳までの10年間私は沖縄リバイバル教会の会員でした。
あの頃、私に伝道した人は言いました。教会の礼拝に参加するには三日間の聖書入門講座の受講が必須だというのでした。私は何とか時間を作りその聖書入門講座を受講しました。その講座を受けた中で私が非常に印象に残ったのは「悪霊は存在する」という点、でした。他に強く聞かされたのは、他の教会はどうなのかわかりませんが、沖縄リバイバル教会の中では「一般社会」のことを「世」と言っていました。
さらにこの「世」は悪魔が支配しているという教えに驚きました。
また、教会は唯一まことの神が臨在するところであり、教会外は悪魔の支配下にあるというものでした。
洗礼を受けまことの神の子にならなければ、悪魔に散々いたぶられ、揺さぶられる人生を歩み、最終的には地獄へ落とされ永遠に苦しみ続けるという教えでした。その頃の私は娘が中学三年生、息子が小学校四年生子育て真っ最中でした。
働かなければ食べていけない現実、子供との時間は中々取れないという生活状況でした。子育てに不安を感じていた私は聖書の教えがあれば、子供たちはまともに育つと単純に思い込んでいました。結果、私の生活はどんどん教会中心の生活に変わって行きました。
それからというもの私は教会にいかない人達や友人たちとの交流がどんどん無くなっていきました。もちろん親戚縁者や兄弟身内との関わり合いも徐々に途絶えていきました。
沖縄リバイバル教会では「肉の家族」「霊の家族」があると教え、血縁関係は単に肉のつながりだと教え、教会の兄弟姉妹は神が備えた「霊的家族・神の家族」と教え、天国では神の家族(教会に属する兄弟姉妹)とともに永遠を過ごすという教えがありました。それを信じた私などは、いとも簡単に親戚身内との関係に線を引くのでした。
あの当時、私の家では複雑な事情が重なり、私が実家の仏壇を預かっていました。仏壇が悪魔の通り道だと儀間牧師の説教から教えられた私は身震いするほど仏壇が怖くなり、儀間盛夫主任牧師の教えの通りとうとう仏壇を壊し処分してしまいました。
位牌(イハイ)は教会のゴミ捨て場に運び、教会事務の屋比久宏と信徒リーダーの一人、波平伸と私の三人で、断ち切りの祈り・打ち砕きの祈り・悪霊追い出しの祈り、を汗水たらし唱えながら先祖代々の受け継がれてきた上江洲家の位牌を無謀にも壊し焼き捨ててしまいました。今になって思うとなんと愚かだったんだろうと悔やまれてなりません。
それからはいうまでもなく家族・親族関係は破綻していきました。その時の私の思考は、「悪魔から親族を守ってやった」つもりでいました。私が仏壇を預かることになったのも「神様のご計画」であり、仏壇を処分できたのは神様の導きがあったからできたことだ、と思い込んでいました。カルト的思考回路にしっかりはまり込んでいた私がいました。
宗教的精神操作マインドコントロールというのは大変おそろしいものです。
「隣人を愛せよ。神は愛なり」という聖句を唱えながら、実際やっていることといえば「隣人を苦しめる」ことを堂々と行っていたのです。家族親族が立ち直ることのできないくらい酷いことをしてしまいました。あの時どれほど兄弟親戚身内の心を深く傷つけたか計り知れません。
沖縄リバイバル教会の儀間牧師の教えを信じきった私は親族家族をイエスキリストからバッサリと引き離していました。この体験は今まで親しい人にも話したことはありません。2005年あの事件の時から7年の時が立ちやっと今話せるようになりました。
私と同じような馬鹿なことはもう誰にもやって欲しくはありません。十字架を掲げている下でこのような異常な精神操作が長年行われています。沖縄リバイバル教会では偶像礼拝を行うことが最大の罪であると教え、神に忌み嫌われると教え込まれます。
洗礼を受け救いの喜びを感じるどころか私の心は恐怖で埋め尽くされていました。
儀間牧師はいつも語っていました。
「牧師は神から選ばれた者」
「牧師は神の通り管」
「牧師は神と人とをつなぐ器」
牧師が全ての面で恵まれなければ、その恵は信徒に流れていかないと常に講壇から
儀間盛夫は語っていました。沖縄リバイバル教会で過ごした十年は恐怖に苛(サイナ)まれ
続けた苦しみだけの生活でした。
つづく
Posted by 上江洌 at 23:27